40歳を過ぎてしばらくしてから、感情の動きが小さくなっていることに気がついた。怒りや妬み、恨みのような感情は、エネルギーを使うのだ。反面、作られた感動には、理由もなく涙が出てしまう。「年を取って泣き上戸になるのは、人生経験を積んで、共感しやすくなっているからだ」と、聞いたことがある。
『パンとスープとネコ日和』の主人公アキコも、心の動きが少ない。ナチュラルで静かな等身大の生き方を描く『パンとスープとネコ日和』の感想を書きたい。
内容紹介
唯一の身内である母を突然亡くしたアキコは、永年勤めていた出版社を辞め、母親がやっていた食堂を改装し再オープンさせた。しまちゃんという、体育会系で気配りのできる女性が手伝っている。メニューは日替わりの〈サンドイッチとスープ、サラダ、フルーツ〉のみ。安心できる食材で手間ひまをかける。それがアキコのこだわりだ。そんな彼女の元に、ネコのたろがやって来た——。泣いたり笑ったり……アキコの愛おしい日々を描く傑作長篇。(カバーより)
筆者紹介
群ようこ
1954年東京都生まれ。1977年日本大学藝術学部卒業。本の雑誌社入社後、エッセイを書き始め、1984年『午前零時の玄米パン』でデビュー。その後作家として独立。著書に『無印良女』『飢え』『働く女』『ひとりの女』『かもめ食堂』『それなりに生きている』『ぎっちょんちょん』『しっぽちゃん』『母のはなし』『作家ソノミの甘くない生活』『ミサコ、三十八歳』『うちのご近所さん』『びんぼう草』『ほどほど快適生活百科』『かるい生活』『この先には、何がある?』『還暦着物日記』『きものが着たい』『小福ときどき災難』『これで暮らす』「パンとスープとネコ日和」「れんげ荘物語」シリーズなど多数。(カバーより一部抜粋)
感想
母親が亡くなり、勤めている会社ではこれまでの経験とは関係のない部署への異動辞令が出た。50代未婚のアキコは、退職を決め、調理学校に通い、パンとスープを提供するお店を始める。このお店がメインストーリーだ。基本的には、ほのぼのとした日常を描く小説である。
商店街の中にある自宅の1階が店舗だから、家賃がいらない。店舗経営をするすべての経営者が羨ましく思うであろう好立地だ。実は、この魅力的な環境には理由がある。その理由が、サブストーリーとして展開していく。
経営の苦労がほとんど描かれないのは、本作のいいところだと思う。売上や儲けといった数字を追いかけないアキコのマイペースな仕事ぶりに、ほっと息つくことができる。
アキコは50代ということもあり、感情に大きなうねりがない。わき上がりそうになる感情も、気付かないふりをして抑えている。そんな静かな感情表現が巧みだと思う。読者も、感情を揺さぶられず、安心して読める。
本を読みながら、若い頃、感情を出さない年上の人が苦手だったことを思い出した。「なんで、黙ってるの? あなたが黙るから、私がワガママ扱いされるじゃない!」と怒りを覚えたこともある。本音を聞き出したくて、あれこれ嫌なことを言ったと思う。今の年齢になって、分かる。感情は出さない方が楽なのだ。あの頃私が責めた人達も、若い頃はきっと同じだっただろう。「自分もそうだったなぁ、若いっていいなぁ」くらいに思ってくれていたと信じたい。とはいえ、年をとっても、嫌なことを言う人はたくさんいる。
この物語には、「嫌味な人」「おせっかいない人」など、少し嫌な人間も登場する。アキコも別に寛容な性格なわけではない。ただ、静かにやり過ごす。私たちの日常もこんな感じなのではないだろうか。どこにでもある、その辺にたくさんある、等身大の私たちの話が描かれていると感じた。
そんな静かな暮らしの中、アキコの感情が動く対象が、ネコの「たろ」である。一見、情が薄そうなアキコだけれど、その愛を一身に受けているのが、たろ。たろが「くおおお、くおおお」と鳴いたとき、私はお尻が床から飛び上がるかと思うほど驚いた。こんなネコの鳴き声の表現をはじめて見たのだ。「にゃぁ」「みゃお」なんて表現が一般的だと思うのだけれど、この物語の中で、たろは様々な鳴き方を披露する。鳴き声のレパートリーが豊かで飽きない。
アキコのたろへの愛情のかけ方は、少し不器用かもしれない。大人ぶって感情にフタをしているアキコ。そのフタをたろは外してしまう。抑えていた感情が、どばどばあふれる時間は、癒しの時間だ。感情を完璧にコントロールしていたかにみえたアキコが子どものように心を震わせる姿に、私の小さな心の傷も癒されていった。
この小説は、ひとつひとつの文章や言葉から何かを学ぶ、あるいは考えるといったタイプのものではないように思う。今ある、ささやかな私の暮らしを大切に慈しもう。そんな読後感だった。
続編も要チェック!
『パンとスープとネコ日和』は、続編が第五弾まで出版されている。第二弾『福も来た』で、一旦オチがついているので、『パンとスープとネコ日和』『福も来た』のセット読みをおすすめしたい。第二弾は少々ご都合主義的だけれど、幸せな気持ちになれると思う。