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『かもめ食堂』は気持ち悪い?なぜ人気?

『かもめ食堂』と検索すると、「気持ち悪い」という評判が目に入ってくる。なぜ気持ち悪いと言われるのだろう?

一方で『かもめ食堂』は根強い人気がある。評価はおそらく、真っ二つに割れている。その理由は、どこにあるのだろうか?

最初に伝えておくと、私は『かもめ食堂』が大好きだ。ただ、酷評する人の気持ちも分からなくはない。

『かもめ食堂』が気持ち悪いと感じる理由と、逆に人気な理由を、個人的に考察してみたい。あくまで、個人的な感想なので、「ふぅん…」という程度にお読みいただけると嬉しい。

お金に対する距離感

『かもめ食堂』の気持ち悪さは、お金に対する距離感にあると思う。主人公のサチエをはじめ、ミドリもマサコも、お金と少し距離がある。お金というより、労働との向き合い方が、現代日本の多数派ではない。私はこの主人公と同じ感覚なので共感するのだけれど、歯を食いしばって働いている人から見ると、拒絶反応が出ても仕方ないと思っている。

お金や労働市場からのこの独特の距離感は、『パンとスープとネコ日和』とも共通している。群ようこの作風と言えるだろう。同じく群ようこの小説『れんげ荘』にいたっては、完全に労働市場から離脱してしまっている。

これらの作品の主人公たちは、反資本主義に見えるのかもしれない。しかし、彼女たちの暮らしは資本主義だから成立しているものである。小規模ながら資本主義における勝者であり、「お金」に人生の重きを置く必要がなくなっただけなのだ。決して反資本主義的思想ではない。

サチエは、大金を手にしたにも関わらず、つつましやかな生活をしている。道楽のように見える食堂経営だけど、贅沢をするわけではない。お金にお金を産ませるようなことにも興味がない。

お金に対してクールな人は、得てして欲が少ないものである。消費によって成長していく資本主義社会では、欲が少ない人は社会の発展に貢献しない。お金を追いかける生き方をしている人にとって、サチエの欲のなさが「気持ち悪い」「社会の敵」と感じるのは無理もない気がする。

今でこそ、お金より時間・心に価値を置く「月10万円のライフスタイル」も市民権を得ているけれど、『かもめ食堂』が書かれた2006年にはまだまだ理解されづらかっただろう。「群ようこに時代が追いついた」と評する人もいるようだ。群ようこはどうやら森茉莉に影響を受けているようで、時代が追い付いてきたのは森茉莉に対してかもしれない。ちなみに、森茉莉『贅沢貧乏』の初版発行は1963年である。

ライフワークとしての食堂経営

お金を追いかける働き方をしていないから、目先の利益を追いかけることがない。

ビジネスを知ったかぶりする人は「商売としてどうなのよ…」と思うかもしれないけれど、自営業経験の実感として、小さなお店は、利益を考え出すと上手くいかない。「質」にこだわれば生活できる程度のお金がついてくる。小さなお店を守る方法は、大きなお店とは真逆。お金に魂を売ると逆効果なのである。だからサチエの経営方針は、実は正しい。

サチエにとって、食堂経営は、ライフワークなのだと思う。生きるための労働「ライスワーク」ではなく、生きがいを得るための労働「ライフワーク」。元々はライスワークとして考えていた食堂経営だったけれど、幸運が味方してライスワークを考える必要がなくなった。あとの人生は、自分のしたいことをやるだけだ。サチエがしたいこと。それが、地味な味わいの食堂だった。

ストーリーがない!!

読書感想を書くとき、一般的に冒頭であらすじを提示することが多いと思う。しかし、私はここまで『かもめ食堂』のあらすじを紹介していない。『かもめ食堂』のあらすじ説明は、ひどく難しいのだ。私は、このストーリーをいまだに上手く説明できない。

はっきり言おう。『かもめ食堂』にストーリーはない。ゆえに、あらすじを語ることも不可能だ。

『かもめ食堂』は、フィンランドで小さな食堂をはじめた日本人女性の日常を描いた小説である。そこに、日本人女性2人と哀しきフィンランド人女性1人、日本かぶれの青年1人が集まって、「ワチャワチャする」という話。(ロストバゲージトラブルや毒キノコ、盗っ人遭遇などの小さなトラブルはあるけれど)普通の小説なら当たり前に存在する主軸の出来事はない。恋もしない。誰も死なない。

小さな日常のトラブルは、物語の終盤、マサコが登場してから立て続けに起きる。といっても、大きな展開があるわけではない。

もっといえば、小説の体裁としては章立てすらない。何もない。

あえて悪い言い方をするなら、文章がだらだらと続いている。サチエのブログかエッセイを読んでいるような感じなのだ。

起承転結がはっきりしない小説は、すごく珍しいのではないだろうか? 少なくとも私は群ようこ以外に読んだことがない。これが、実に不思議な魅力である。何度読んでも、なぜこれが小説として成立しており、私はもちろん多くのファンを虜にしているのか、きちんと説明ができない。おそらく、「物語」というより「日常」として追体験しやすいのではないだろか、と今のところは思っている。

ただ、この何もなさは、「おもしろくない」と感じる人がいても、まあそうだろうな、と思う。

ちなみに、群ようこのエッセイ『こんな感じで書いてます』で、「プロットを作成せずに書いている」と語っていた。プロットというのは筋や構成のこと。エッセイのことだけなのか、小説もそうなのか分からないけれど、「このゆるい作風は、プロットなしだからこそ生まれるのかもしれない」と、妙に納得した。

小さな暮らしを慈しむ小説

『かもめ食堂』は、舞台がフィンランドで特別感があるけれど、その内容は、「健やかな小さな暮らし」とでも言うべき生き方の提案だと思う。フィンランドである必要がない。(ただ、この小説はそもそも「フィンランドで映画を撮影する」ための企画物のため、そこは深く考えないでおこう。フィンランドに移住する方法なども現実的ではないかもしれない。そして、『かもめ食堂』の日本版ともいえる『パンとスープとネコ日和』は2012年からスタートし、シリーズ化している。)

私たち(と、一緒にしては怒られるかもしれないけれど)凡人は体や心を犠牲にして頑張ったところで、手に入れられるものは限られている。それなら、自分ひとりが暮らせる程度の「小さな暮らし」を慈しみ、心豊かな生き方をしてもいいのではないか? そんな生き方をやさしく肯定してくれる小説だと思う。

小さな暮らしを守る生き方は、多くを手に入れるより、軽やかだ。

それは人間関係にも言える。フィンランドという異国で知り合ったサチエ・ミドリ・マサコの3人は、仲が良く、しかし深く干渉することはない。この距離感もまた、お金に対するそれと同様にクールなのだ。

それなりに年齢を重ね、何者にもなれない自分に気づき、静かに暮らしたいと願う大人にじんわりと響く小説、それが『かもめ食堂』なのだと思う。


『かもめ食堂』が好きな人におすすめしたい次の小説

『かもめ食堂』が好きなあなたへのおすすめは、『パンとスープとネコ日和』。出版社勤めを早期退職して、手作りのパンとスープを提供する小さな食堂をはじめる女性の物語。働き者の従業員や近くの喫茶店の店主、そしてネコとの交流をしながら、自分の出生とも向き合う大人の静かで穏やかな小説。『かもめ食堂』とほぼ同じ世界観だけど、『かもめ食堂』より物語展開がある。(『パンとスープとネコ日和』の私の読書感想はこちら